小林凛ランドセルの俳人と日野原重明医師との俳句文通について

大阪府に暮らす小林凛さんは、5歳から俳句を詠み始め、全国新聞の俳壇で何度も入選し、身のまわりの自然や、小さな生き物を優しい目線で切り取った俳句は、多くの人から高い評価を受けて、当時小学生だった小林凛くんはランドセルの俳人と呼ばれていました。

そんな小林凛くんがとっても仲のよかったのが先日2017年7月18日に105歳でお亡くなりになった日野原 重明医師です。

ここでは、小林凛くんと、医師の日野原 重明さんとの俳句の文通についてまとめています。

http://www.asagaku.com/osirase/20131201/index.html
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小林凛くんプロフィール

  • 本名:小林凛太郎
  • 2001年5月生まれ
  • 出身:大阪
  • 一つ年板の弟・瑛士君がいます。弟の瑛士君不登校ながら本を出版するなどして芸術活動を続ける仲間として、兄弟枠を超えた付き合い方をしています。

予定より3ヶ月早く944gで生まれた凛くんは、「命がまず持つか3日まって下さい」と言われるほどだったそうです。

凛くんのお母さんは、ベッドの上で、1日たった2日たった3日たったって数えて祈ってるしかできなかったそうですが、3日を超えた時はどれほど嬉しかったことでしょうね。

そして、ミルクをはかない子だったそうです。
体に入ってきた栄養は全て吸収してやるぞみたいなぐらいのかんじで、この子の生きる力、生きようとする力だったのかもしれないとおっしゃるほど、すぐから、生きること、生き抜くことに貪欲だったそうです。

そんな凛くんはお母さん、おばあちゃん、犬と暮らしています。

小林凛くんが不登校になったのは小学5年生のときでした。

中学になり一旦学校へは通うものの、2ヶ月でまた学校へ行けなくなってしまいました。

昨年中学3年生だった小林凛くんは、自宅学習をつづけていましたが、今年の春でそれも終わっているはずです。

当時のある取材で「学校に行きたいなって気持ちはあるの?」

という質問に対し、

たぶん嫌な思い出増やしに行くだけですね。

と答えていたのが妙に印象に残っています。

さらに、

学校に行ってると何か知識を得るというより、逆に得るものが無いというか、逆に奪われていってるって感覚でした。

とも答えていて、大人だな、って思ったものです。

そしてその時に凛くんが読んだ俳句は

いじめられ行きたし行けぬ春の雨(凜11歳)

でした。

また、中学校でいじめられ同級生の暴言や、悪しき教師から逃れ不登校に奈多時に、土手で他から離れて咲いていた水仙を見て詠んだ俳句が

黄水仙一輪咲きで生きていく

でした。

そんな小林凛くんがこれまでに詠んだ句は、2015年には既に800を超え、2014年に出版した2冊目の著作は、昨日2017年の7月18日に105歳でお亡くなりになった医師の日野原 重明さんとの共著『冬の薔薇立ち向かうこと恐れずに』でした。

冬の薔薇 立ち向かうこと 恐れずに

小林凛くんが小学生だった頃から楽しみにしていたのが、日野原重明さんとの俳句文通で、2人は日頃の出来事や、命についてのやりとりを交わすなどして、親交を深めていいったのです。

医師の日野原重明さんといえば。聖路加国際病院名誉院長として幅広いメディアに出演なさっており、著作も多く、2005年には文化勲章を受章なさるほどの方なのに、まだまだ幼かった小林凛くんとの出会いで俳句を初めていらっしゃるほどの仲でした。

当時、日野原医師は、

まあ凜君に会わなければ俳句なんかやってなかったですから。
104歳の僕はね

とおっしゃていたほどで、日野原医師が俳句を初めたのは98歳になってからでした。

まだまだ小学生だった小林凛くんは、落ち葉をひろって、

落ち葉には色んな色や形があって、人もそれと同じように個性があるっていうことを、

いろかたちみなそれぞれの落ち葉かな

と言う俳句をで表現しています。

そしてその落ち葉は、俳句を初めて4年になる俳句友達の日野原医師へ送っていらっしゃいます。

そのやり取りはとってもしっかりしたもので、

先生
今日散歩道で
落ち葉を拾いました。

一枚一枚全部異なる美しさです。

お目にかかる時は変色しているかもしれませんが、我が町の落ち葉をお送りします。

それに対して日野原医師は、

はい、どうも。ありがとうございます。

というシンプルなやり取りながら、とっても暖かくて可愛いものを感じます。

また、織物教室に通い始めた凜くんは、日野原先生の誕生日に手作りのマフラーも贈っています。

そして、そのことを凛くん宛のお手紙に

凜君
君からもらった「さをり織り」を私の首に巻きました。
私は乗馬クラブに行き生まれて初めて馬に乗りました。
青空を仰ぐとガッツポーズをしたくなる。

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と送っていらっしゃいます。

こういったシンプルなお手紙のやり取りは、年齢もおじいちゃんと孫以上の開きがある2人なのに、上手に距離を保ちながらも、お互いを思いやる深い想いはどこでつながっているんだろうと思えるほどです。

さらに、学校でのイジメのことを日野原先生に送った時に帰ってきたお返事は、

忘れないでいて欲しいことがあります。
うれしいときだけが”きみ”ではありませんよ。
どんなときの自分も大事にすること。
生まれてきたことは、それだけで素晴らしいことです。
「君たちの
使える時間
それがいのち」

小林凛くん&日野原先生
引用:ハートネット

またある秋の日、凛くんは日野原先生の自宅に招かれて、背比べしたり、一緒にお庭の高揚した木々を眺めたりしたこともありました。

これからも背が伸びていく凛くんと飛翔的に縮んでいく日野原先生の身長差は5.5cm。

その時のことを日野原先生は

「凜君よ空高くのびし、竹の如(ごと)」

と詠み、君がますます青竹のごとくずうっと背が伸びていくその姿を見ると、僕もずっと元気に生き続けたいという気持ちがあるとおっっしゃってうます。

君のこれからの。君をおっかけて。

君は104歳の僕と出会って、そして俳句の世界に一緒にですね、生きることはこれまた最高じゃないでしょうか。
そしてこの2日後に、日野原さんへのお礼の俳句は、

実ざくろや百四の師と背くらべ
でした。

日野原重明医師が104歳で出版された俳句の本がこちらです。

10月4日 104歳に104句

日野原重明医師プロフィール

日野原医師
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170718/k10011062981000.html
  • 名前:日野原 重明
  • 生誕: 1911年10月4日
  • 出身: 山口県吉敷郡下宇野令村(現:山口市)
  • ご逝去:2017年7月18日(満105歳没)
  • 出身校 京都帝国大学

聖路加国際病院名誉院長で看護師養成や予防医学の発展に尽力、「生活習慣病」の言葉を提唱するなどし、100歳を超えてもなお多彩な活躍をしてきた、医師の日野原重明さんが18日、呼吸不全で死去した。105歳だった。29日午後1時から東京都港区南青山2の33の20、青山葬儀所で関係者のみの病院葬を行う。今後、お別れの会を予定している。

http://www.sankei.com/life/news/170718/lif1707180004-n1.html

日野原氏は3月下旬に消化機能の衰えにより食べることが難しくなったが、体に管を入れて栄養を取る経管栄養や胃ろうなどの延命治療を「やらない」と拒否。数日後に退院し、自宅で日野原重明さん(105)が名誉院長だった聖路加国際病院(東京都中央区)の福井次矢(つぐや)院長福井院長らの診察を受けながら療養していた。17日夜、福井院長が訪ねた際に「つらいところはありませんか」と聞くと、顔を左右に振って応えた。18日朝は次男夫婦ら家族が見守る中、徐々に呼吸機能が低下していったという。

平成24年に理事長を退くまでの71年間、同病院で現役の医師を続けたほか、昨年まで末期がんの患者が多くいる緩和ケア病棟を訪ね、患者を励まし続けた。日野原氏と話すことで生きがいを感じる患者も多かったといい、病院には患者らから「献花をしたい」などの問い合わせが多く寄せられている。

http://www.sankei.com/life/news/170718/lif1707180050-n1.html

まとめ

ここでは先日、105歳でお亡くなりになった日野原重明医師と、俳句を通して交流を深めていた小林凛君との俳句のやり取りや交流についてまとめています。

小林凛くんにとっての、日野原重明医師の訃報は、心にぽっかりアナの空いたような喪失感なのかな?と思ってみたのですが、なんとなくそうではないような気がしています。

小林凛君のなかの日野原重明医師は永遠で、肉体をともなわない深い部分で繋がているような気がするのです。

生前のお二人の関係は、年代や生き方全く違うけれど、とてもあたたかくて、凛くんがこれから日野原重明医師の年齢に近づくに連れて、日野原重明医師から受け取ったあたたかいバトンを、同じように交流していく誰かに渡していくのかなっと、おもったのでした。

日野原重明医師のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 

 

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